『大牟田の宝物100選』より

万田坑跡

  万田坑は、一九〇二年から一九五一年まで石炭を掘った三池炭鉱の主力坑である。当時日本一の大会社であった三井鉱山が炭鉱業界の模範となるような坑口施設をつくるため、総力を挙げて建設したもので、明治時代につくられた炭鉱施設としてはわが国最大の規模を誇った。

  深さ約二七〇メートルの立坑が二ヶ所に掘られ、その周囲に巨大な施設がつくられ、多くの人が働いていた面影には程遠いが、現在なお、第二立坑の櫓、巻上機室などの坑外施設がよく残っている。

  巻上機室は、二棟のれんが造の建物をたけくらべに連接し、高い方にケージの巻上機が設置され、低い方には重量物の搬出入に使うウィンチが据え付けられている。櫓は、鋼鉄製で、高さは約18メートルである。宮原坑第二立坑の櫓がすらりと背が高く軽快であるのに比べると、いかにもどっしりして重厚である。

  ほかにも、扇風機(坑内通気のため空気を吸い出す設備)室の遺構や、山の神(鉱山の守り神である大山祇神社を分祠したもの)などが残されていて、国の重要文化財に指定されている。また、宮原坑と同じく国の史跡にも指定されている。

  第一立坑の施設は早くに失われ、かつて櫓が建てられていたコンクリートの台座が残るくらいであるが、コンクリートの蓋により閉塞された坑口の一部は、グレーチングになっており、いまでも、地下約二七〇メートルまで掘られた立坑を実際に目にすることができる貴重な遺構である。第二立坑が各種施設を残しながらも、立坑そのものは土砂で埋め戻されているのと好対照をなしている。

  ちなみに、第一立坑に建てられていた巨大な鋼鉄製の櫓は、万田坑で使われなくなった後、北海道の三井芦別炭鉱に運ばれて、余生を全うしたそうである。同様なことは、田川の伊加利坑の立坑櫓が、大牟田の四山港沖立坑に移設されて閉山まで使用されていた例もある(閉山後解体される際に一部の部材は田川に里帰りした)。

  二万平方メートルにも及ぶ広い敷地は、大牟田市と熊本県荒尾市にまたがってあり、主要な施設はすべて荒尾市側に所在する。敷地内には、職場や大工場という名称の作業場も残っており、坑内で使う道具や機械の製造、修理を行っていた様子を偲ぶことができる。

  また、建設当初の明治時代は、あらゆる機械が蒸気動力で動かされており、そのための蒸気を沸かした汽缶場の痕跡も敷地の内外に残っている。

日本の近代の中で、石炭がいかに重要な役割を果たしてきたかを学び、その採掘のために、大きな空間と施設の中に、技術と労働力が集約されてきた歴史を体感するのに格好の場である。

  その広大さゆえに、今後文化財としての管理も困難が予想されるが、荒尾市教育委員会が提唱して発足した「万田坑ファン倶楽部」が、既に除草清掃など活発に活動しており、おおいに期待される。

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